
カメルーンの国旗の意味とは?色と星に込められた歴史と誇りについて。〜先人たちの血と涙〜
今日はカメルーン国旗の由来と歴史的背景を紹介していくで〜
みなさんカメルーンは大好きでしょうか?サッカーといえばカメルーン。
そんな節ありますよね。
この国は「アフリカの縮図」と呼ばれアフリカの地形や気候、文化を一まとめにした魅力ある国なんです。
カメルーンを旅行すればアフリカの全てを堪能できる、そんなことも囁かれています。
今回はそんなカメルーン国旗について解説をしていきましょう。
目次
Toggle概要

緑、赤、黄色…。すごいアフリカっぽい国旗にゃね。
アフリカの中央部に位置する多民族国家・カメルーン。その国旗には独立・統合・栄光という国の歩みが鮮やかに刻まれています。『緑・赤・黄』この色は汎アフリカ色といわれ、さまざまなアフリカの国旗に使用されており、カメルーンもそのうちの1つになります。
国旗デザインについて

緑:森林
国旗の一番左側に使用されている緑色はカメルーンに生い茂る森林の木々を表現しています。
南部・南東部につらなるコンゴ盆地の一部に植生豊かな熱帯雨林が広がっています。その広さはなんと、国土の約46%を占めるんだとか。
熱帯雨林には約9000種もの植物が確認されており、そのうち約500種程がカメルーン固有種だといわれています。
☆生息してる生物たち☆
世界最大級のカエル:ゴライアスガエル
絶滅危惧種:クロスリバーゴリラ
英名『Forest Elephant』:マルミミゾウ
赤:統一
カメルーンは元々、ドイツ・フランス・イギリスなどの植民地支配から独立し、1つの国として統一を果たした過去を持ちます。
赤には「統一」「独立」などの意味が込められている他、独立のために「流された血」。先人たちの犠牲を忘れない意味も込められていると考えられます。
植民地の影響として公用語が英語とフランス語になっています。
カメルーンには250を超える民族が存在しており、それぞれが独自の言語を持っているそうです。そのため、公共の場所では英語とフランス語。自分の集落へ帰った時は自民族の言語を話すそうだとか。


黄色:太陽
カメルーン共和国国旗の黄色い色は、太陽とカメルーンの北部に広がるサバナ地帯を表現しているといえます。
サバナ地帯は、広い空と強烈な太陽光が特徴的で、暑い時期(乾期)になると平均気温が40度を超えるんだとか。
ちなみに「ハルマッタン」と呼ばれる、乾燥した砂混じりの風が吹くことがあり空が白く霞んで見えるようになるそうです。
霧(空気中の水滴)の砂バージョン的なやつですね。体に悪そう。
星:栄光
星は栄光と独立のメタファーです。アフリカ各地に共通する星の使用は、半植民地闘争における勝利の象徴、アフリカの解放運動における希望の星、として位置付けられています。
国家エンブレムや軍帽、銅賞など数多くの場面で星のシンボルは使われてきました。

次はカメルーンの歴史について見ていこか〜
カメルーンの国旗の変遷
カメルーンはかつてドイツ・フランス・イギリスなどの植民地支配化におかれながらも独立、統一を果たした、アフリカでもあまり例を見ない輝かしい国なのです。その独立と統一の背景にはどのような道のりが隠されているのでしょうか。
- ドイツ保護領カメルーンの国旗
- 1884年から第一次世界大戦中の1916年までの約30年間、カメルーンはドイツの保護領下に置かれていました。

- イギリス領カメルーンの国旗(1922年〜1961年)
- その後、ドイツが第一次世界大戦で敗北したことをきっかけに、ドイツ領カメルーンは英仏(イギリス&フランス)に分割占領されます。
フランス領カメルーンは国土の約4/5を占領し、イギリス領カメルーンはナイジェリアの国境沿い(北西部)を占領しました。

- カメルーン共和国の国旗(1960年〜1961年)
- 先に独立を果たしたのはフランス領カメルーン(1960年1月1日)。1960年といえばアフリカ全体で独立運動が高まった「アフリカの年」と呼ばれる年であり、カメルーンの独立はこの新しい時代の幕開けを飾る歴史的な出来事でありました。

- カメルーン連邦共和国の国旗(1961年〜1975年)
- 1961年、国連の主導の元、イギリス領カメルーンの処遇を住民投票で決議しました。
その結果北部はナイジェリアへの編入を選択。南部はカメルーン共和国との統合を選択しました。カメルーン連邦共和国の誕生です。
ちなみに、左上の2つの星は「イギリス&フランス領カメルーン」の融和を表すマークだと言われています。

- カメルーン共和国の国旗(1975年〜)
- 星の数が中央の1つになり現在使われている国旗のデザインになりました。
カメルーンの連邦制は1972年に廃止されており、国名がカメルーン共和国に改名されるのは1984年のことになります。

アヒジョとUPC:建国の父と独立急進派閥
UPCとアマドゥ・アヒジョ。この2つはカメルーン独立において欠かすことができない存在です。国の独立は決して容易なことではありません。その歴史的背景には先人たちの努力や流した血の日々が存在するのです。
UPC(カメルーン人民連合)
UPC(カメルーン人民連合)とは1948年にカメルーン国内で設立した政党の1つで、カメルーンの完全独立と英仏に分割された領土の統一を目標に活動していました。
しかし対外政権に対する抗議デモが武装衝突に発展。1955年フランス当局によりUPCは違法とされ、リーダーたちは国外へ逃亡、残ったUPCはゲリラ作戦を展開するようになります。
1956年12月、UPCゲリラがフランス政府に対して本格的に反乱を開始。フランス軍・UPCゲリラによる内戦は、数万人規模の死者を出したそうです。
その後、UPC率いるリーダーのルベン・ウム・ニョべは1958年に殺害され、UPC指導者であるフェリックス・ムリエは1960年にスイスで暗殺されました。
ゲリラ作戦って?
正規軍ではない小規模部隊が、奇襲・待ち伏せ・撹乱などを中心として戦う戦術のことを指します。小が大を倒すにはとても効果的な戦術と言われているんだとか。
アマドゥ・アヒジョ
UPCに刺激を受けたアマドゥ・アヒジョは英仏統一を目指しつつフランスとの協調路線を重視した、政策をとりました。フランス領カメルーンが独立を果たす際にカメルーン初代大統領として選出され、当時34歳という若さで国家運営を行います。
アヒジョは1966年にCNU(カメルーン国民連合)を設立。CNUは野党を吸収・統合した合邦政党であり、強力な中央集権体制と1党体制への移行をアヒジョは推し進めていきました。
UPCの武装抵抗に対しフランス軍の支援を受けて鎮圧。降伏者には恩赦を提供しつつ、反発するものには容赦ない弾圧を実施しました。
アヒジョは「建国の父」であると評価されると同時に、「人権や民主主義の抑圧」について批評されている存在でもあります。
カメルーンの独立について
アフリカ初期の独立国家:カメルーンはアフリカにおける独立の先駆的な立場であり、新しい時代の幕を切り開いた国の一つでもある。
強権体制への道:UPCと戦時体制のまま政治構造が構築されたため、のちに政権の長期独裁につながっていった。
内戦による深い分断:UPC支持層の粛清と地域的な分断が、後の「アングロフォン危機」など複雑な歴史的背景となっていく。
あとがき
多民族、多言語、複雑な歴史を抱えながらも、一つの国家として歩みを続けたカメルーン。国旗に輝く星はただのシンボルではありません。
それは、分断を乗り越え、統一を選んだ国の誇りなのです。
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