
救出されたくない人質たち?『ストックホルム症候群の不思議』〜恐怖と愛は紙一重〜
ある日、銀行で起きた人質事件。6日間にも及ぶ籠城戦の末、人質は無事に解放されました。
救出されたはずの人質は、こう言い残します。
「犯人たちは優しかった、私たちの命を守ろうとしてくれた」
なぜ人質たちは自らを危険に晒した加害者たちをかばったのでしょうか?
今回ご紹介するのは、心理学でよく知られる現象『ストックホルム症候群』についてです。
目次
Toggle『ストックホルム症候群』
ストックホルム症候群とは、誘拐や監禁などの状況で、被害者が加害者に対し好意、共感、信頼を抱くようになる心理現象のことを指します。犯罪心理学ニールス・ベジェロットにより命名されました。
この用語は、1973年にスゥーデン・ストックホルムで起きた銀行強盗事件(ノルマルム広場強盗事件)に由来します。人質となった銀行職員たちは、加害者をかばい、警察に対して敵意を見せました。
また、無事に解放された後も、犯人に対して裁判で有利な証言を行い、1人はのちに犯人と婚約したとも言われています。
この事件は大衆に大きな衝撃を与えただけではなく、数多くの心理学者の興味を惹きつけ、現在でも研究の文献資料として活用されています。
ノルマルム広場強盗事件

旧クレジット銀行
タージ・オルシンによる「元信用銀行ノルマルムストルグ・ストックホルム・スウェーデン」は、 CC BY-SA 2.0 に基づいてライセンスされています .
事件の概要
・発生日:1973年8月23日〜28日(計6日間)
・犯行現場:スウェーデン ストックホルムの中心部、ノルマルム広場に面するクレジット銀行にて
・関係者:『主犯』ヤン=エリック・オルソン 『交渉役』:クラーク・オロフソン 『人質』:銀行職員4名(女性3人、男性1人)
1973年8月23日、午前10時過ぎ、当事件の主犯であるヤン=エリック・オルソンはストックホルム中央のノルマルム広場に面したクレジット銀行に突入。
オルソンはサブマシンガンと爆弾を所持しており突入と同時に発報。「私はシカゴから来た」と叫び銀行を占領した。その場にいた客と銀行職員を一時的に拘束。交渉中人質を最小限(女性3人+男性1人)に絞り金庫室内へ立てこもった。
オルソンの要求は次のようなものだった。
1.オルソンの旧友、クラーク・オロフソンの釈放及び現場への同行許可。
2.逃走用の車両と現金300万スウェーデンクローネ(当時で約60万ドル)、国外逃亡の安全の保障。
当局は時間稼ぎと情報収集を優先し、要求の一部を受け入れてクラーク・オロフソンを現場に送り込むという異例の行動をとった。
人質が監禁されている金庫室は窓も外気もなく、完全に閉鎖された空間であり、睡眠、排泄、飲食それらすべてが一部屋内で行われる極限の生活を強いられた。
犯人は時折、人質とゲームや雑談を交わすなど距離を縮める行動を行う一方で、警察の突入計画や、外部からの強制介入に対し、人質を盾にして脅迫する場面が見受けられた。
事件発生から数日が経った頃、人質が自らテレビ局に電話する事態も発生(現場と外部は電話回線でつながっていた)。
この頃から、人質たちが加害者に感情移入する兆候が現れており、女性人質は「私たちを本当に危険に晒しているのは犯人ではなく、突入を計画している警察たちです」と発言した。この発言はメディアにも取り上げられ、世間に大きな衝撃を与えている。
8月28日、犯人の説得が不可能だと感じた警察は銀行上部から催涙ガスを金庫室に流し込む作戦を決行し、金庫室内へ突入。
人質は無事解放された。事件の発生から終結まで、計6日間の緊迫した籠城劇だった。
解放後、人質の誰一人として犯人に対して強い怒りを示さず、加害者を庇う発言も見受けられたという。ある女性人質はのちに犯人と交流を続けたとも。
その後
ヤン=エリック・オルソン:目立った精神疾患の診断はなく計画的犯行だったとみなされ現行犯逮捕。のちに有罪判決を受けた。刑務所内で更生し、出所後は一般社会で暮らした。晩年位はインタビューなどで事件を振り返っている。
クラーク・オロフソン:事件前から犯罪歴があり、事件後も断続的に刑務所生活。スウェーデンにおける「悪名高きカリスマ犯罪者」として名を馳せた。

ストックホルム症候群「なぜ被害者は加害者に共感するのか?」
誘拐や監禁、そのような状態下においてなぜ被害者は加害者に共感するのでしょうか?それは人の脳が、生き残るためのサバイバル戦略、脳の再構築を行なっているからだと考えられます。
人は極限状態において、恐怖・絶望・緊張といった非常に強いストレスに晒されます。このような状況において抵抗も脱出も不可能だと判断した場合、加害者に従い親しくなった方が「生き延びる確率を高める」と脳が認識するのです。
- 1.脅威の認知と支配の始まり
- 加害者が突然現れ、支配力を発揮(誘拐や監禁など)。被害者は身の安全を加害者に依存している状態となり「生かされている」「相手が怒れば死ぬ」といった支配感覚に襲われます。この段階では加害者のことを明確な敵だと認識しています。
- 2.順応と適応
- 抵抗や脱出が不可能だと判断すると、被害者は加害者に適応しようとします。表情・言葉・態度などを変え「怒らせない」「好かれたい」と振る舞います。
生物学的な観点においても、これと類似するものがあり、動物の服従戦略「トニック・イモビリティ(死んだふり)」などが挙げられます。
被食者が捕食者に捕まった際、完全に動かず従順となることで食べられないようにする戦略のことです。【例:猫に捕まったネズミはじっと固まり、鳴かずに身を委ねる】
また、加害者が見せる小さな優しさ(怒鳴った後に水をくれる、会話に応じるなど)から加害者の中に、人間性や思いやりを見出すことで精神的ストレスの軽減も期待できます。
被害者の脳が「この人は本当はいい人だ」と解釈することで、信頼や感謝の感覚が芽生え心の平穏を保とうとするのです。
この状況が長期化すればするほど、唯一のコミュニケーション相手である加害者と共依存的な関係(ストックホルム症候群の加害者バージョン→リマ症候群)「この人しか私を理解してくれない」、その結果外の世界に敵意や恐怖を感じるようになっていくのです。
- 3.最認知と共感の芽生え
- 加害者が話しかけてくれる、暴力を止めるといった些細な行動が思いやり・人間性として認知され始めます。「この人は私を守ってくれている」「本当は理解者だ」という共感・信頼・感謝の感覚を生むようになります。
- 4.愛着と共依存の形成
- 被害者が加害者を「保護対象」「信頼すべき存在」と感じるようになり、心理的な絆が形成されます。
外部からの救助や警察の介入に対して、敵意や恐怖を感じるようになり、終わった後も、「あの人は悪くない」「私が彼を変えられる」といった関係を継続しようとするケースも見受けられます。
この症状は解放後も心理的に囚われている状態が続くケースが往々にして存在します。治療には被害者を加害者から十分な物理的な距離を置き、あくまで適応行動として共感・信頼などの感情が発生していたことを認識させる必要があります。
ストックホルム症候群は、精神疾患でも人格障害でもありません。正常な人間が異常な状況下に陥ることでおこる適応行動の一種で”正常な反応”と言えるのです。
・「好意・信頼の形成」:加害者に対して思いやり・愛情・信頼を抱く。
・「擁護行動」:加害者の考えや動機を理解・正当化しようとする。
・「外部(警察や救護者)に対する恐怖や敵意」:助けに来た人よりも加害者の方が信用できると感じる。
・「自責・罪悪感」:被害者であるのにも関わらず自分を責めてしまう。

関連する症状
リマ症候群
リマ症候群とは、加害者や誘拐犯が人質に対して同情や好意を抱くようになる心理現象のことを指します。いわゆる、ストックホルム症候群の逆バージョンです。
名前の由来は1996年ペルーのリマで起きた「日本大使公邸人質事件」から。
左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MART)」のメンバーが数百人の人質を取って大使公邸を占領。ところが犯人たちは自発的に人質を解放し、最終的には数名しか拘束を続けませんでした。
DV(ドメスティック・バイオレンス)
ストックホルム症候群は誘拐や軟禁など極限状態で生じる心理現象として知られているが、実は日常的な場面でも似たようなものが存在します。その代表例がDV(ドメスティック・バイオレンス)だと言えるでしょう。
DVではパートナーによる上下関係(支配関係)、家庭という閉鎖環境、時折見せる加害者の親切心など、ストックホルム症候群が発症する構図と非常に似ているのです。
「本当は優しい人なんです」「怒らせた私が悪い」これらの言葉は加害者による洗脳ではなく、被害者自身が生き残るためにサバイバル戦略をとっているからに他なりません。
DV被害者に対して周囲の声掛け(なぜ逃げないの?など)は届かないことが多い。なぜならDV被害者にとってはその関係の方が”安全に感じている可能性”があるのだから。
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